理性主義からの解放を目指して-『詩としての哲学』冨田恭彦

 「哲学とは真理の探究である」、そう理解している人は多いのではないか。古代ギリシャから西洋近代において、哲学の至上命題は、「理性によって絶対的な知としての真理を捉えること」であった。そこには不変なる真理というゴールが設定され、その時代、その場所における人間の営みに左右されない知が、あらかじめ想定される。

しかし真理は人間の意志や経験から独立して存在しうるのか。哲学とは措定された真理をあるがままに捉えることなのか。

 本書はそんな問いかけから始まる。著者は、R・ローティが提示した「詩としての哲学」を批判的に継承・拡張することで、従来の絶対知の探究としての哲学とは異なる、新たな哲学的系譜を論じている。あらかじめ定められた真理へ迫る営みではなく、目的地を固定しない、創造的で開かれた知的営みとして、哲学そのものが再解釈される。既にある知を捉えるのではなく、新しい思考、新しい捉え方、新しい価値付けを生み出す営みこそが「詩としての哲学」とされる。

 この哲学は「詩としての」という枕詞が付く。その理由は、その思想的系譜がイギリス・ロマン主義の詩人らにはじまり、エマソンニーチェハイデッガー、ローティらに見出されるからである。ニーチェハイデッガーはともかく、ロマン主義の詩人たちが哲学史の表舞台に登場することは稀である。

 詩と哲学の関係を巡る歴史は、哲学の誕生とともに議論されてきた。プラトン以来、真理を獲得するための能力である「理性」が人間にとって最も重要な心の働きとされ(=理性主義)、詩作は真実性(イデア)の模倣とされる現実世界をさらに模倣するだけの、真理から二重に遠い営みと考えられてきた。
 これに対しワーズワースやコールリッジといったロマン主義の詩人らは、「想像力」の意味を問い直し、理性に対して優位すると説く。例えばコールリッジは『文学的自叙伝』の中で想像力の働きを次のように説明している。

それ[想像力]は再創造に向けて、分解し、拡散し、消滅させる。あるいはこの過程が不可能となる場合でも、ともかくそれは、理想化し統一しようと努める。あらゆる対象が(対象としては)本質的に固定し生気がないのとは裏腹に、それは本質的に生気に満ちている。

創造的で総合的な能力としての想像力。著者はここに「詩としての哲学」の源流を看取する。

 

 本書の魅力は、新しい哲学の系譜を描き出すことだけではない。むしろ興味深いのは、後半部が近代哲学、理性主義的哲学を代表する人物に関する記述で占められていることである。

 著者曰く、デカルトとカントは認識に関する絶対的基盤を説きつつも、それは自然学的思考を中心とした新たな認識論を、想像力の発露として提示したに過ぎない。さらにロックの経験論に対する誤解を解くことで、むしろロックは「詩としての哲学」に重要な貢献を与えた創造的な哲学者であるとされる。

 こうした再解釈は、従来のような「ロマン主義啓蒙主義」という二項対立での理解を乗り越える。さらに言えば、ロマン主義の地平に啓蒙主義を融合させ、我々のロマン主義理解を一新させるだろう。

また現代的な意義について触れるなら、プラグマティズム保守主義のように「哲学や理論がない」と非難されてきた思想は、それは「理性主義的哲学」ではなく「詩としての哲学」に基づいた思想なのだと解釈することも可能になる。このように「詩としての哲学」は我々の哲学観を改め、異端とされてきた思想を復興させる可能性を秘めている。