想像力と有限性-『想像力』メアリー・ウォーノック

今、私の目の前にはパソコンとテレビがある。テレビではニュースで中年の女性が泣いている。その涙と表情をみて、私は女性の気持ちを「想像」する。

「想像する」という行為は、人間社会において当たり前のように行われている。当たり前でありながら、しかし一方で「お前は想像力が足りない」なとと怒られるように、上手く想像できないこともある。想像することは一つの力であり、だから想像「力」と言われるのであろうが、「どんな力なのか」と、立ち止まって考えてみたことはあるだろうか。

西欧哲学の伝統の中で、「想像力imagination」という概念について議論は盛んに行われてきた。古代ギリシャの時代から現代哲学に至るまで、想像力論は多くの思想家による思考の蓄積がある。一方日本においてはその蓄積はほとんどないと思われる。日常的な使用や辞書的な定義を超えて、「そもそも想像力とは何か」と哲学的に問うことはきわめて稀である。

本書はその西欧における近代以降の「想像力」概念を、思想史的かつ哲学的に探究している。ヒュームやカントらの議論を入口とし、英国の詩人であるコールリッジとワーズワースによるロマン主義的な想像力論を深く掘り下げる。さらに「イメージ」と「想像力」の関係性を、現象学サルトルウィトゲンシュタインらの議論を参照しつつ哲学的に問うている。

ウォーノックによれば、まずもって想像力とは心の中でイメージを形成することである。immaginationという言葉の通り、人間はimmage を心の中に作り、実際には見たことも聞いたこともないような何かを知覚することができる。

何らかの表現活動、およびその活動の解釈も、想像力の営みであると言える。絵画であれ音楽であれ彫刻であれ、芸術は単なる物体や振動(具体)を超えた、意味(抽象)を持つ。作り手であれ、その解釈者であれ、両者の媒介には想像力が不可欠である。その意味で芸術作品を理解し創造する際の思考様式でもある。

現実の世界に意味を与え解釈することも想像力なしには不可能である。赤・青・黄色というただの標識に、止まれや進めの意味を与えるのは人の想像力である。人の目から水滴が流れれば、その人は涙を流し、悲しいのか嬉しいのか、その人の心情が揺さぶられているのだと推察する。その時ただの水滴に、喜悦や悲哀という意味を与えるのが人間の想像力である。

心的なイメージを形成すること、芸術作品を創り理解すること、現実の世界に意味を与え解釈すること、これらは同じ思考様式に拠っている。この思考様式こそが「想像力」であると、ウォーノックは述べる。人間の日常的な知覚から芸術や象徴の解釈に至るまで、すべて想像力なしには不可能である。その意味で想像力は普遍的であり、感情を触発しながら人間の「知る」という営みに関わる。言い換えれば想像力は知性の一部である。このような包括的な能力としての想像力を、様々な思想家たちの議論から引き出している。

ウォーノックの想像力論が他と一線を画すのは、ロマン主義的な想像力の重要性を強調している点である。コールリッジとワーズワースは、具体的・限定的な経験や「今、ここ」を超えて、言葉では汲みつくしえない何かの存在を看取する能力として、想像力を捉えている。想像力の本義は「決して完全にはとらえることのできないものをとらえようとすること」にあるという。有限な存在としての人間が、想像力をもって思考を巡らせることで、普遍的な何かへと接近することができるのである。ヒュームやカントといった西欧近代の代表的哲学者のみならず、ロマン派詩人の理論と実践(詩作)を俎上に載せることで、ウォーノックはより多角的な議論を展開している。

当然ながら本書は想像力論を網羅したものではない。例えばウォーノックは、想像力と感情との間に必然的な関係性があると主張しているが、思想史的な記述を越えて、「なぜそこに関係性があると言えるのか」という哲学的な掘り下げはなされていない。「想像力」のみならず「感情」もまたロマン主義の主題であったことを鑑みれば、その手がかりもまたロマン主義にあるのかもしれない。

 

それでもウォーノックの想像力論は、現代社会に様々な示唆を与えてくれる。

昨今は「何かを知る」ということに際して、大きな分裂があるように感じる。一つは自己の前提や解釈の物語の自明性を疑わぬまま敷衍・絶対化していこうとする独断主義。あらゆる現象を「男と女」、「日本人と外国人」の対立などという前提から解釈しようとするイデオロギーなどはこの範疇であろう。もう一つは、「何も知りえない」と言わんばかりに、他者と共有できる物語などなく、常に「外側」を明示することのみに躍起になる冷笑主義。前者は自己の完全性の中でしか成り立たず、後者は他者との共同性を放棄した思考である。

自己の有限性を自覚しつつ、しかし「今、ここ」を超えた何かへの接近を目指すこと自体は止めないロマン主義的な想像力は、現代の独断主義と冷笑主義の間で平衡感覚を保つためには必要な思考様式であると思われる。