カールトンヒル

良い街には象徴がある。出来事、風景、食に人物。そこに人が集い、衣食住という営みを継続的に行う空間ならば、その街を凝縮し表象するような象徴が生まれてくる。エッフェル塔を見ればそこにはパリの街が広がっているとわかるし、ビッグベンを見ればそこはロンドンだと解釈する。象徴は単にその事物のみを見せるのではなく、それ以上の何かを見る者に伝える。想像力を掻き立てる。

もちろん象徴にも善悪や美醜がある。何かを集約するとき、そこからこぼれ落ちるものがあるのは避けられない。あるいは、どこかの権力者や組織が「これだ」と宣言することで、不自然に耳目を集め、愚物が象徴へと化すこともある。無理に何かを観光地化させたがるケースはこのタイプになりやすい。一時的な流行に終わる象徴も多い。

しかし一方で、いい意味で人を惹きつける象徴も間違いなく存在する。歴史の熟成を経て、その象徴の美的魅力や出来事の真実性に根ざし、自然とかつ次第に人々の集合的な意識が向けられるところに生成する、正しい意味でのシンボリックな何かが存在する。

象徴を語ることは、象徴を再び形成し維持することにつながる。裏を返せば、語ることをやめれば象徴はすぐに消失する。象徴は自然物のように、人間の営みから独立して存在する何かではない。

さらに言えば、いい象徴は我々に自らを語らしめる。放っておいてもその美しさ(あるいは悲惨さ)ゆえに誰かがもてはやす。だからこそ時の試練に耐えうる象徴は、世代を超えて人々を魅了し続け、言葉を紡がせ、また象徴としての地位を再度確保する。これも象徴の魅力であるように思われる。

 

カールトンヒルへ初めて行ったのは、エディンバラに着いた翌々日だった。寮のイベントで、ツアーと題されたものに参加した。ツアーとは言っても、寮から徒歩十分程度である。そんな近くにあるのにも関わらず、三十人ほどの参加者がレジデントアシスタントという寮に住む博士課程の学生に率いられる。今考えると幼稚園児の遠足のようだった。だが到着したばかりのこの街に関しては、さながら幼稚園児ほどしか知らなかったのだから、あながち間違った表現でもないと思う。

初めてこの丘に向かった時は、湿気含みの生ぬるい風が吹いていて、通り過ぎる観光客の聞きなれない言葉に耳をそばだてたりしていた。

 

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10 Sep, 2018 Calton Hill

丘からエディンバラの街並みを初めて眺めたときは、なんとも「贅沢な風景」だと感じた。そしてこの風景こそ、自分がこの街に来ることを選んだ理由そのものだった。それまで写真や書物、映像の中の世界でしか存在しなかったものが、生きた現実として自分の地平に現れた感動は忘れがたい。視界から途切れることなく続く悠揚たる物腰の街並みに心が躍った。同時に、向こう一年何度もここに足を運ぶだろうという気がした。

 

漱石は『倫敦塔』で、観光地へは二度三度と足を運ぶものではない、などと書いていた。確かに観光地に関してはそうかもしれない。しかし私は観光でここへきているのではない。私にとってこの丘は非日常の体験のための場ではなく、自らが住まうことになる土地の一部である。出たくなったら出られるような場所ではない。向き合わねばならない場所である。

どこかに住むとはその土地の習慣に身を埋めることでもある。英語で「住民」は inhabitant であるが, 文字通りそれは習慣(habit)の中(in)に参入することを意味する。観光ではなく留学で来ている以上、私はこの土地の inhabitant になることを望んだ。どこか習慣的に通い、自分の定点となる場所を持ちたかった。もっとも習慣らしい習慣、すなわち象徴にこの身を埋め込みたかった。それがここカールトンヒルだった。

 

この街での体験が増えるほど、この丘からの景色は違ったものになっていった。視界に映る建物一つ一つに自己の体験としての物語が積み上がり、ただの物体が「意味」を持つ。意味を持った建物や場所という「部分」が、また街という「全体」へと還元される。街を知ることは部分と全体の解釈学的循環だと、改めて感じた。

 

 

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Edinburgh Castle

街の中心に屹立している建物がエディンバラ城である。巨大な岩の上に据えられたこの城の美しさは、城の中へ入って展示物をどれだけ見てもわかるものではない。城などは一介の市民が内に入って下界を見下ろすためのものではない。過去のこの街の市民はそんなことをしなかっただろう。どこからでもよいが、街という此岸から城という彼岸を見上げるべきものだと、個人的には思う。旧市街からせり出した巨岩の上に乗る堅塞固塁のようなこの城は、街の崇高美の象徴である

 

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Scott Monument

城の近くに見えた黒ずんだ塔はウォルター・スコットのモニュメントだと、近くを歩いたときに知った。スコットの銅像は街の至る所にある。駅の名前が「Edinburgh Station」ではなく「Waverley Station」と、スコットの小説から取られているところに、この街で彼がいかに愛されているのかを知ることができる。またアダム・スミスやデビッド・ヒュームといった数多いるスコットランド人の俊傑の中で、このロマン派の文人に最高の象徴性が与えられていることに、彼らがいかに言語や物語を重んじる民族かという推測をすることもできる。人文知への敬意を常識的に抱いている彼らの精神文化は、過剰な効率性やら合理性が称賛される空気を吸って育った自分にとって、ある種の解毒作用のような効果があった。

 

 

丘の上にある円形の石碑はスコットランド啓蒙の担い手デュガルト・ステュワートのものである。約三百年前、エディンバラを揺籃の地として発展したこの啓蒙思想は、賢しらな合理主義にとらわれないもう一つの啓蒙であった。資本主義の胎動とともに経済的利己心がはびこる中、そこに社交や共感の道徳哲学を提示した彼らの思想が、今日のスコットランド人の気前良さ、人の良さと無縁であるとは考え難い。パブで聞こえてくるスコットランド英語を終始理解できずにいた自分ともベルヘイブンを飲んでくれた彼らと話していると、そんな古層があるのではないかと思わざるを得なかった。彼らと話していると、パブで出されるビールの生ぬるさもなんとか許す気になれた。

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David Hume, スコットランド啓蒙を担った哲学者の一人

 

丘から見える王冠を被せたような建物が、セントジャイルズ大聖堂である。churchとcathedral の違いも分からないほどキリスト教文化に疎い私に、その美的魅力を初めて教えてくれたのはここだった。中に入ると、巨大なステンドグラスから取り込まれた光は幻想的な心地よさを与え、アーチ状に広がる天井が人間存在の卑小さを痛覚させる。椅子に座って深くため息をつきながら、この聖堂の荘厳さに魅了されていたことを思い出す。さらに言えば「ゴシック」という言葉に手触りを与えてくれたのもこの場所だった。自分にとって観念でしかない文言が、生の体験を通して実感のある言葉になるとき、異国の体験が体験としての価値を持つ。キリスト教という私にとっての「他者」との生きた対話の場が、セントジャイルズ大聖堂であった。

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St. Giles' Cathedral

中心に見える時計台は、J・K・ローリングハリー・ポッターの最終巻を書くために使ったバルモラルというホテルだと誰かから聞いた。「賢者の石」を書いていたという市内のカフェが、今では観光地になって、ゆっくりとコーヒーも味わえないのはいただけないが、新しい象徴であればそれも仕方がない。当時ローリングは貧乏暮らしで、エディンバラに住む妹だか姉だかを訪ねてきたのだという。なるほどホグワーツエディンバラ城にそっくりであるし、作中に登場する人物名が近くの墓地に眠る人々から取られている。おまけにディメンターはエディンバラの鬱屈した空気がローリングにインスピレーションを与えたとも言われているが、霧に包まれた旧市街を見たとき、さもありなんと思った。この街の歴史的豊かさは現代の物書き達にとっての想像力と創造力の源泉でもある。

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The Balmoral

街から少し外れた木立にはディーンヴィレッジがある。中心街にはない田舎っぽさをもつこの風景もまたエディンバラの一部である。田舎風ではあるが瀟洒な建物が、ここを風光明媚な場所として際立たせている。閑静な住宅街の中に流れる川の音と鳥の囀りに耳を済ませていれば、一時間などあっという間に過ぎる。初めて訪れたときは、茶褐色の川の色に思わず不潔だと感じてしまったのだが、後にそれは泥炭が染み出た色なのだと知った。スコッチの琥珀色の源泉だと知れば、それも愛でずにはいられなくなる。再度訪れたときはこの川の色も含めて、やはり美しいと感じた。

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Dean Village

丘から見えない他の場所にも魅力があるが、到底書き切れるものではない。いずれにせよ私はこの丘から見えたもののある場所へ足を運び、それらをまたこの丘から確認していた。カールトンヒルへ来るたびに街を知り、街を知るたびにカールトンヒルへ来たくなった。

 

八月三十日、エディンバラを離れる前日もやはりここに来た。この国にしては十分晴れた、涼風が心地良い日だった。振り返ると、最初に来たときに「贅沢だ」と感じたのは正しかったのだと思う。

過去が現在へと入り混じるのがエディンバラである。歴史を生きたすべての住民の余薫の上に、今の住民の自由と秩序を成り立たせているのがエディンバラである。そんな魅力を聞きつけて訪れる人々を受け入れているのがエディンバラである。未だ明らかになっていない悲劇や負の歴史を抱えているのもエディンバラである。

古都ならではの時間と空間の圧縮。それが最初にこの街を眺めた私に、容易には味わい切れぬこの土地の豊饒さを示していた。それが私に贅沢だと感じさせたものの正体だったのだと思う。カールトンヒルは、エディンバラにおける象徴の数々を一望できる場所であり、エディンバラの象徴そのものである。

 

 

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14 April, 2019 早朝のCalton Hill

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10 Aug, 2019 夜のCalton Hill