”共通了解”のための哲学

「政治哲学という分野を研究していた」と話すと、その反応はおおよそ次の二つで、「政治に関心があるんですね」、あるいは「哲学に関心があるんですね」のいずれかだ。一般の人にとって「政治哲学」という聞き馴染みのない二つの熟語の組み合わせは、たいていパキっと切り離され、一方だけが耳に残って話が進む。

「哲学」の方で話が進んだとき、会話は泥沼へ一直線だ。相手の言うところの「哲学」を理解するのに時間がかかるし、そもそも「哲学ってなんだかわからん」というイメージが先行する。加えて、そもそも自分に純粋哲学の意義や役割を平易な言葉で説明するだけの知識と理解が不足している。哲学的な何かに数年関わっていたが、それを研究していれば相手に上手く説明ができるわけではないというのが、哲学の、そして学問の難しさの一つかもしれない。

苫野一徳の『はじめての哲学的思考』は、そんなことを考えていたときに手にした本だった。その文章の平易さだけでなく、ポストモダン以後の哲学の再定義をはかっているところにも魅力を感じた。その上で、明瞭に哲学を学ぶことの意義を一般の人に向けて語り掛ける、自分にとって至れり尽くせりな一冊であった。

 

本書において哲学とは「物事の”本質”(共通了解)を明らかにする思考の方法」だと定義される。

「本質」という言葉が使われていると、とりわけポストモダンの思想を吸った哲学徒にとっては、条件反射のように「本質とは何か」と問いたくなる。ポストモダン以降、「絶対的な真理」や「本質」は疑ってかかるのが常になった。あらゆる社会や文化、時代に当てはまる「絶対的真理」などはない、というのは著者も合意するところである。

とはいえそれは、哲学が”共通了解”にたどり着けないというわけではない。「本質」が存在しないというわけではない。誰もが「なるほど、それは確かに」と言えるようなことを本書では”本質”=共通了解とし、それを浮かび上がらせるための思考を哲学と呼ぶ。

相対主義の現代、人々は——哲学者たちでさえ——「絶対的に正しいことなんて何もない」といって問題を済ませようとする傾向がある。(…)でも、僕たちの人生にはそれで済まない時がある。対立を解消したり、協力し合ったりするために、何らかの”共通了解”がどうしても必要になる時がある。そんな時、哲学は、「ここまでならだれもが納得できるにちがいない」という地点まで深めようとする。そしてすぐれた哲学者たちは、いつの時代も、もうこれ以上は考えられないというところまで思考を追いつめて、それを多くの人びとの納得へと投げかけてきたのだ。p.18

「考え方は人それぞれだよね」という、もはや小学生でも言っているような考え方から離れるには、やはり哲学的な思考が必要なのだ。

 

簡単な定義が与えられた後には、哲学と宗教、また哲学と科学の違いも説明される。宗教は”神話”でもって問いに答えを出す。しかし神話は反証可能性(本書では”たしかめ可能性”)を欠いている。哲学は科学とも違う。科学も反証可能性を前提にするが、科学は事実を扱うのに対し、哲学は真善美を始めとする「意味」を扱う。物を手放せば落下するとか、水は100℃で沸騰するというのは、「事実の世界」だ。一方で哲学の「意味の世界」は、目に見えない、しかし問わずにはいられない人間社会の関心領域だ。そして「意味の世界」は「事実の世界」に先立つ。

 

哲学=「物事の”本質”(共通了解)を明らかにする思考の方法」という視点から、デカルトフッサールらも「共通了解」を追い求めた哲学者と解して説明がされるのであるが、現象学の根本である「意識作用」の説明上手さには舌を巻いた。

こうしてフッサールは、どんな帰謬論者も懐疑論者も、決して反駁することのできない”思考の出発点”を提示した。デカルトの言うような、実体を持った”わたし”ではなく、世界がこのように「見えっちゃっている」「感じられちゃっている」という”意識作用”それ自体。もうちょっと別の言い方をすると、わたしに立ち現れた、何らかの”確信”や”信憑”。これだけは、どんな気謬法によっても否定することができないのだ。p.89-90

 

一方でわかりにくくなるのはその先だ。筆者は「確信」や「信憑」、あるいは「信念」が生じる根本的背景には「欲望」があるとみる(「欲望相関性の原理」)。それゆえ信念の次元で議論をするのではなく、欲望の次元にまで遡ることを勧める。例えば教育において、子供の自主性を認めより広い自由を与えるべきだという人がいる一方で、子供が未成熟であることを理由により統率的にすべきだという人がいる。信念の次元では食い違うが、どちらも「将来的に生きたいように生きられるようになってほしいという関心(欲望)」ならどちらも合意するに違いないという。「欲望」や「関心」と意味があいまいなため、取り出された共通了解(「将来的に生きたいように生きられるように」)がなぜ「信念」ではなく「欲望」と言い換える必要があるのかはわからない。

さらに筆者は、共通了解として遡れる出発地点をヘーゲルに、つまり「自由の相互承認」(「互いに相手を自由な存在として認め合うこと」)に求めている。ここもなぜそう言えるのか本書では語られないし、仮にそうだとすれば、常にそこに舞い戻ることがわかっている以上哲学は不要になるのではないか。

哲学が共通了解を見出そうとする営みであることは同意するが、それはすでに確認された原理に戻ることではなく、対立や衝突から未知なる第三の地平を生み出そうとすることではないか。もしかすると「自由の相互承認」の原理ですら否定され、別様の原理が生み出される可能性を残さなければ、それもまた哲学とは言えないはずである。

それでも本書の内容は豊かなものである。「一般化の罠」や帰謬法の無意味さなどの部分は、ある種の「ビジネス書」的な学びがある。政治哲学的関心においても「欲望(信念?)」の次元にさかのぼって、ロールズの「無知のベール」が格差原理から引き出されていることを、「結論ありきの思考実験」だという点は、なるほどと思った。なにより相対化、とりわけ「考え方は人それぞれだ」という恐ろしい一言で何かを言ったふうになってしまう現代社会に、敢えて「ひとまずみんなが納得できる」という意味での本質を求めることの美徳を、改めて感じることができた。