「古典を読む」ということ

 
自分にとっての研究とは
先日、正式に大学院を辞めてきた。留学を終える時点でアカデミアから離れることに決めていた。研究をする上での自分の能力の問題、経済的問題、昨今の研究職の厳しい状況など、理由はいろいろあるが、最終的には「研究を続けるだけの覚悟が持てなかった」という一言に尽きる。
自分は胸を張って「研究をしていた」と言えるほどの期間を過ごしたわけでも、労力を費やしたわけでもない。専門分野も曖昧なまま、自分がやりたいように書籍や論文と向き合い、それっぽい問いを立て、稚拙な文を書き連ねたに過ぎない。専門を聞かれれば「政治思想史」や「政治哲学」と答えていたが、両者を曖昧にしている時点で、厳格な方法で研究していたとも言えない。普通の大学生より多少学生生活が長引いただけだと思っている。
しかし一方で、長引いた分費やした時間も間違いなく存在する。「何をしていたのか」と聞かれれば答えに窮するが、一つ言えるのは「古典を読んでいた」ということだ。主に西洋政治思想に関わる哲学者(日本の思想家にも触れてきたが)の古典を読み、解釈するという実践に5年ほどの歳月を費やした。バーク、ヒューム、カーライル、コールリッジあたりを中心に、プラトンアリストテレスからハイデガーアーレント、日本で言えば福澤諭吉西田幾多郎夏目漱石九鬼周造などは一定期間の関心が向いていた。
だが改めて「古典を読む」とはどういうことなのかと考えると、すぐに答えられるものではない。そもそも「古典とは何か」という問いと不可分だが、ものによっては二千年以上前に書かれた本を、”今、ここで”読むという行為は何を意味するのか。どんな価値があると言えるのか。これは大きな問いである。
だからこそ、自分の体験を振り返りつつ、その意義を考えてみたい。自らの実践を反省的に理解し、そこから自分が何を学んだのかを文章にしておきたい。
 
解釈学としてのテクスト理解
古典を読むという営みを考える上で、自分が大きな影響を受けたのはH.G.ガダマーの解釈学である。ガダマーは20世紀を生きたドイツの哲学者で、ハイデガーの弟子にあたる。留学時の修士論文はガダマーの政治思想がテーマであり、自分の研究にとって、ガダマーは対象でありかつ手法でもあった。したがってこの記事の内容も、「理解すること」についてのガダマーの議論ということになる。
解釈学は、もともと古典や法律、聖書など、様々なテクストを解釈する際の方法論として西洋文化の中で育まれてきた。一方ガダマーの解釈学は単なる方法論を超えて、「解釈とはなにか」、「理解するとはなにか」という、社会に生きていれば誰もが関わる問題を哲学的に探究した。言い換えれば、単なる方法論を、人間学にまで昇華させた。それゆえ「哲学的解釈学」とも言われる。したがってこの奇蹟をたどることは、「古典を読む」という一見些末な営みが、いかに人間の普遍的な営みにかかわるのかを考えることにもなる。
 
客観的な理解は可能か
そもそも自分が本格的に古典と向き合い始めたのは、大学院に入ってからだった。それまではいわゆる「教養として」古典を読むことはあっても、研究としてテクストと向き合うということはなかった。そして研究が始まると、まず直面するのが、テクストを解釈することの難しさである。振り返るとそこには二段階の難しさがあったと思う。
最初の問題は、テクストと向き合うときの「自己の関心」との距離の取り方である。普通の人による古典の読み方では、自分の問題関心に合わせてテクストを理解しても、何ら問題はない。孫氏の『兵法』をビジネス論として読もうが、マキャベリの『君主論』を人心掌握術として利用しようが、深淵なる思想家の言葉の束を切り刻んで自己啓発の糧にしようが、その人の自由である。
しかし「学問的に読む」とは、自分の問題に即して恣意的に読んでいくこととは異なり、それが書かれた「文脈」と「著者の真意」に即してテクストを読んでいくことだとされる。言い換えれば研究者には「客観的な理解」が求められる。自分の心地良い部分をテクストから拾って解釈するのは、自分の理解可能な範囲だけをつまみ食いする「幼稚な」読み方でもあり、理解者としてのマナー違反でもある。
「客観的な理解など当たり前ではないか」と思う人もいるだろう。客観的に読むことは古典解釈のみならず、近代科学の基本的な精神であり、今日では一般人にも要求される態度である。わたしたちは学校教育の国語でも、主観的な読みではなく客観的な読みを求められ、訓練を受ける。その過程で無意識のうちに「著者の真意」や「正しい理解」を想定し、与えられた選択肢に丸をつける作業の反復を通して、いわゆる「アルキメデスの点」に立ち、対象を客観的に理解できると考えるようになる。
しかし「客観的な理解」は本当に可能なのだろうか。ここに二つ目の問題が立ち上がる。とりわけ古典というテクストを正しく理解することはできるのか。現在という時点で、此処という場所に生きるわたしが、過去に書かれ、著者がすでにこの世を去っている文章を真に理解することができるのだろうか。同様に、異なる文化の、したがって異なる言語によって書かれた文章の場合はどうか。要するに、時間的、空間的に距離のあるテキストを理解することは、原理的に可能なのか。
古典は本質として時間的かつ空間的な隔たりを有するテクストである。もっと言うと、こうした隔たりを超えて、今ここに生きるわたしたちに語り掛けるものだからこそ古典と呼ばれる。それゆえ、「今ここ」から解釈を試みる我々にとって、古典は「他者」である。学校教育で読んだ日本語の古典ですら、外国語のようだと感じた人は少なくない。そんな他者の「真意」なるものを「客観的に理解する」ことなどできるのか。
 
解釈学的循環のアポリア
ガダマーの解釈学は、近代科学の要諦にある「客観的な理解」に疑問を投げかけることから始まる。
テクスト理解に困難が生じるのは、そこに「解釈学的循環」というアポリアがあるからだとされる。解釈学的循環とは、一言で言えば、「部分についての理解は全体の理解を前提にするが、全体の理解は部分についての理解を必要とする」ということである。
例えばテクストの中のある単語は、その文脈の中から意味が決定される。したがって、その単語(部分)の意味を理解しようとすれば、その文脈(全体)を把握していなければならない。しかし文脈を把握するためには、テクストの中の一つ一つの単語の意味も理解していなければならない。こうして単語(部分)と文脈(全体)が循環してしまう。
そしてこの部分や全体を客観的に把握できないのは、解釈者が「状況」に巻き込まれ、「地平」に埋め込まれているからだと、ガダマーは言う。小野紀明の『古典を読む』(2011)では次のように説明されている。
 
「ガダマーによれば、古典とそれが属している過去を理解しようとしているわたしたちは、「アルキメデスの点」に立っているのではなく、自身が「状況」のなかに巻き込まれています。(・・・)「状況」とは、ガーダマーの解釈学の専門用語で、自分の前に横たわる、自分とは無縁な対象としてそれを眺めることができず、したがって、それについての客観的で合理的な知識を獲得することが不可能な、自分を取り巻く状況を意味しています。言い換えるとそれは「地平」です。(・・・)ある地点から見ることのできるものの全体を包摂する領域です」p.12

われわれは特殊性、具体性、歴史性を持った「状況」に巻き込まれ、その中から解釈を試みている。例えばコロナ禍の今、カミュの『ペスト』を読むことで生まれる解釈と、私が3年前に始めて同書を読んだ時の解釈は、おそらく違う。それは私がコロナ禍という状況を生きているからであり、そこから離れて理解することなど不可能である。それゆえわれわれは「状況」に巻き込まれている。ガダマーはこの「状況」を「地平」とも言い換えているが、解釈は常に「地平」の中でしか生まれない。

こうした「地平」のなかからテクストの解釈を試みるということは、解釈が偶然性に基づく「実践」であることを意味する。ここでいう「実践」も専門用語である。

「実践とは、役に立つとか実用的であるという一般的な意味ではなく、真理ではあるが必ずしも普遍的ではない知識に基づくという意味です。言い換えると、実践にあっては偶然性が本質的な意味をもっているのです。同じ人間でも、まさに「状況」が異なれば、たとえ異なる相手に応じて、異なる行為をすることがあり、それをもって判断がまちがっていたと決めつけるわけにはいかないのです。人間の世界ではすべてが流動的なのであり、すべてが偶然性にゆだねられているのです。そうした世界にあって分別ある人間は偶然性を考慮して、「状況」のなかで最善の判断をしていくのです」(下線は筆者)
「客観的な理解」とは、「誰がいつどこで理解してもそうなるところのもの」を、言い換えれば必然的で、不変的な理解を目指す。ところがガダマーの説明では、そうした理解はありえない。理解は常に自己が置かれた地平という偶然性のなかでの営みである。
 
「地平の融合」としての古典読解
 
古典を読むということの目指すところが、客観的な理解ではありえないとなると、果たして何を目指すのか。先取りするとそれは「地平の融合」であるが、この言葉を説明する前に、「偏見」という概念に関するガダマーの見方を知る必要がある。

われわれ近代人は、「偏見をなくして理解すべき」という規範を当たり前のように受け入れている。しかし、偏見とは英語でprejudiceだが、"pre"は何かに先んじることを、”judice"は”judge”と同じ語源であることからして、「ある判断を下すまえに依拠しているもの」を指す。その意味で偏見とは「先判断」や「先入見」と訳されるのが正しい。

問題は、先入見なしで物事を理解することは可能なのかということである。あるテクストを目の前に、あらゆる先入見を取り払えたとしよう。その時我々は、目の前にある紙の束が書物であると理解することすら不能になる。その中に文字が刻まれているのかも、あるはそれが紙の束なのかも不明になる。もう一つ例を挙げると、ある人物を前に先入見を無くして理解しようと試みる。そのときその人に日本語で語りかけてよいのだろうか。そもそもその人の形をした目の前の存在は本当に人なのか・・・。こうした問題が立ち上がる。結局、われわれは自己の先入見なしに他者を理解することはできないのである。それでもなお「偏見をなくすべき」という考えから離れない人は、「偏見をなくすべきという偏見(先入見)」を抱えていることに無自覚である。

しかし当然、自己の先入見には真偽や善悪がある。間違った先入見や、倫理的に正しくない先入見を放置してよいわけではない。ただ、客観的にその先入見を把握できるわけでもない。そこで我々に求められるのは、「古典を読む」という「対話」の実践である。

「古典を読むことは、その古典の著者の真意を把握することではなく、著者と、例えばプラトンと「対話」することなのです。プラトンの意図を明らかにするのではなくて、プラトンとわたしたちの違い、両者それぞれが持っているバイアスというものを受け入れたうえで、その違いをむしろ「対話」という形で明らかにしていく―それは可能です」p.6(同上)

ここでいう「対話」は、おそらくわれわれが日常的に使う対話とは異なる構造をもっている。それはテクスト=他者とのかかわりの中で、自己否定、あるいは自己の不完全性を浮かび上がらせる契機があるかどうかだ。自己が放り込まれている「地平」、言い換えれば「先入見」を対話の原動力としつつ、他者とのそれとぶつけ合う。その瞬間に初めて自己の先入見の特殊性に気が付く。その「地平」や「先入見」の存在に気付くために、「古典を読む」=「他者との対話」という営みが必要なのである。これが古典を読むという実践の目的の一つである。

ただし、自己の「先入見」に自覚的になることだけに始終すれば、それは究極的には自己と他者の差異化に明け暮れることになる。言い換えれば「あなたと私は違う」という、当たり前のことに始終することになる。「分断」という近年社会問題化したキーワードを思い起こせば、差異化のみを目的とした「対話」もまた危険である。

ガダマーはこうした問題に気付いていたため、「地平の融合」という概念を持ち出した。解釈者は、対話を通じて、自己の「地平」の存在に気付く。それはテクスト(=他者)の「地平」とは異なる。そのことに気付いたうえで、他者の「地平」を自己の「地平」に受け入れていくことで、新たな「地平」が生まれる。この現象をガダマーは「地平の融合」と呼び、テクスト理解、そして他者理解の目的とした。

「わたしたちは、安易に自分の考えを他者に押し付けるのではなく、他者が「他者」であるということを尊重しなければなりません。しかし、その「他者」は、別の星に住んでいるわけではありません。わたしたちは、この世界で「他者」とともに生きていかなければなりません。「他者」を理解するということは、いわば「他者」と「対話」をしようと努力することです。そして、その「対話」を通して、「他者」とわたしとの間に第三の地平を開いていこうと努力していくことなのです。解釈学の課題についてガーダマーは、古典のテキストと現在の読者の「間」に、そして異なる「地平」の間に生じる緊張を引き受けて、それを第三の地平へと発展させることであると、『真理と方法』の中で述べています」p.72 (同上)
他者との差異、自己の有限性を自覚しつつ、それでもなお(それゆえに)、他者との共同性の創造に向けた「地平の融合」を志向することが、古典を読むということ=他者を理解するということである。
 
現代の「理解」をめぐる問題
ここで述べた「理解」の仕方が、私が古典を読むという実践を通して目指してきたものである。一言で言えば「他者理解」のために「古典読解」はある。実際に私が他者を理解できているのかはともかく、少なくともその実践に自覚的ではある。
しかし、こうしたガダマー的な「他者理解」の構造が分かったところで「何の役に立つのか」ということも問われるだろうから、可能な限りで答えたい。
ここでは「古典を理解する」という構造から「他者を理解する」という普遍的な構造をガダマーの理論によって抽出してきた。では、現代社会で「他者を理解する」際に求められる態度はどのようなものか。
我々が他者を理解する際の現代的な規範は、大きく分けて二つあると思われる。一つ目はリベラルな態度、もう一つはポストモダン的態度だ。両者の規範の重要性はもちろん一定程度あるのだが、少なくとも私はそこにいくつかの問題があると考えている。
まずリベラルな態度では、他者を理解する際に自由主義的な「寛容さ」を求める。「自分と異なる他者を尊重し、受け入れるべき」というのが常識的な他者との向き合い方だ。ただこの種の「理解」は、そもそも理解を拒否しているとも言える。
これはリベラルな理解が、自分と異質な他者との衝突・矛盾を直視しようとしていないからである。自己が先入見から逃れられないにもかかわらず、自己の中立性・完全性を前提として、他者を”受け入れ”ようとする。ときに「包摂」という言葉が使われるが、この場合受け入れる側と受け入れる側に明らかな非対称性がある。この理解において、ガダマーが言うような対話における自己否定の契機はない。自己の完全性が揺るがないのであれば、理解の前後で自己の「地平」が揺さぶられることはない。理解者の理解できる型に他者を当てはめ、「心地よい理解」のみに留まるのである。
それゆえリベラルな態度は往々にして、他者への「無関心」に帰着する。型にはめてそぎ落とされた部分には目を向けようとしないからである。ここには「理解する」と言いながら何も「理解」していない、大きな欺瞞が生じやすくなる。
二つ目のポストモダン的態度は、上述したような、自己の有限性の問題を引き受けつつも、他者との差異を強調することに始終する態度だ。だがこうした差異化を志向する「理解」は、自己と他者の間をつなぐものをことごとく相対化=破壊していく。この営みの果てに残るのは、決して他者と共通するものはないという冷笑的な態度のみである。
ガダマーの「地平の融合」が目指すところは、こうした二つの現代的な理解の規範の”間”にある。自己を揺るがすまでの理解を試みる点で、自由主義的無関心とは距離を置く。一方で、自己と他者の差異を前提に、それゆえに対話を続けようとする態度は、ポストモダン的な冷笑に始終することはない。現代社会に求められている「理解」をめぐる規範は、ガダマー的な理解にこそあると私は感じている。これが古典を読むという営みから得たものである。
 
わりに
高校の頃、漱石の『こころ』を授業で読んだとき、なぜKが自殺したのかわからなかった。「私(先生)」が言い放った「精神的に向上心のない者はばかだ」という言葉が、なぜKを死に追いやったのか。学問に打ち込まずに恋愛に溺れてしまうことで死ななければならないのなら、今日どれほどの若者が自裁しなければならないのか。「K」は私にとって理解を超えた「他者」であった。
だが大学に入って一年ほどたったころか、『こころ』を読み返したとき、「K」には明治の時代精神という「地平」が横たわっていることを理解した。私が拠って立つ平成の学生の「地平」との距離を自覚した。勉学に励むことの重さや責務の大きさの違いを察したとき、「K」のように自殺するほどではなくとも、漫然と学生生活を送る自分を恥じることはあった。そこから少しずつ古典を読み始めたと記憶している。振り返ると自分の学問への衝動にも「地平融合」があったのだと言える。
自己の有限性を自覚するとともに、地平融合による創造や変化が、古典を読むという実践の核心である。
 
(小野紀明(2011)『古典を読む』)