書房

「いらっしゃい」と、低くて落ち着きのある声。奥には知的な雰囲気に満ちた老店主が座っていた。砂が噛んだ引き違い戸を閉めると、独特な匂いが鼻を突いた。ざっと棚を見回すと、見たこともない本が多く並んでいる。

京都の寺町通りに並ぶ、とある書房。地元では有名な本屋である。ベストセラー本は少なく、人文系の珍しい本が多く置いてある。問屋の流通ルートから外れた本も扱っているらしい。哲学や文学に関心を持った大学三年の春あたりからか、私は何度もその店を訪れるようになった。 

この書房で本を選ぶことは、店主と無言の対話をすることを意味する。並べられた本から店主の考えが透いて見える。「流行りの本ではなく、誰かに面白いと思ってもらえる本を」。そんな店主の意図を推し量りながら、これはと思った本を一冊一冊手に取る。

ここはネットや大型書店で自分の読みたい本だけを買うことに慣れた私に、「相手と向き合いながら選ぶ」という新しい本の買い方を教えてくれた場所である。相手の趣味に向けて自分の関心を伸ばしていく。自分の手が届きそうで届かないところへ誘われるように、自己を開いてゆく。何を読むかを決めるところから読書は始まるのだと、このとき初めて学んだ。

だがここも出版業界の風霜には耐えられなかったようだ。年明けのニュースで、今年中に閉店することを知った。小さな書店が閉店する話は度々耳にする。とはいえこの書房だけは特別だった。懐古的になるのは、そこに私の血肉の通った思考の痕跡があるからである。生きた経験があるからである。この場所なしに自分の読書体験が語れないからである。三月に寄った際は最後になるかもしれないと思い、いつもより多めに本を買って帰った。 リュックの肩紐がピンと張った。

 

七十年続いた古い書房が、私にとっては新鮮な場所だった。「古さ」は「新しさ」の源泉なのかもしれない、と帰り道にふと思った。昔から存在するものが、激しく変化する社会の喧騒から距離をとり続けると、一周回って新しいものに映る。そこには「古きものとしての新しさ」が、間違いなく存在する。

「古きものとして新しさ」は、言い換えれば自分の知らない「他者」の一つである。昨今は「異国」の人やものとの触れ合いが新しい発見をもたらすと喧伝されるが、「異時」の何かもまた私たちの地平を広げてくれる。異様・異種なるもの=他者との遭遇による自己の有限性の自覚が、我々が言うところの「人生経験」であって、それを可能にするのは新奇なるものだけではない。

「多様性」や「寛容」云々と喧しい時代であるのに、古き良き他者へは秋霜烈日の厳しさで接している。空間的多様性への熱狂が時間的多様性を圧殺しているとすれば、我々はどこへ行き着くのだろうか。